半導体用語集
韓国の台頭
英語表記:gathering strength of Korea
韓国のエレクトロニクス産業は、1950年代、輸入部品の組み立てから始まり、1960年代のラジオ、白黒TV組み立てへと発展した。技術政策は、海外資本を積極導入し、その現地生産や合弁(JV)を通して組立生産技術を吸収した。さらに、1970年代には、政府は国立研究所を設立し、ハイテク分野の研究開発を行おうとしたが、それ自身は不調に終わり、技術の源はOEMが中心であった。むしろ政府研究所の役割は、民間企業の研究開発を刺激したことの意義が大きかった。1980年代は大躍進の時期であった。家電分野である程度の地位も確保された。政府の輸出振興施策で半導体に注力したのもこの時期である。さらに、技術導入パターンは、ライセンスや米国からの技術者帰国が中心となったのである。こうした素地が半導体躍進の背景にあった。1990年代に入り、DRAMでシェアを向上させたサムスンは1988、1989年に8位だったが、1990年、1991年には2位、1992年に、1メガで大躍進を遂げた東芝を抜いてトップとなってからは、首位を独走している。特に、1995、1996年においては、サムスン1位、現代電子5、6位、LGセミコン8位とベスト10中、3社を韓国勢が占めた。1999年に現代電子とLGセミコンが合併するため、単純合計では、世界トップが現代電子&LGセミコン、2位がサムスンとなり(マイクロンのTI分の立ち上がりを除外)、韓国は少なくともDRAMでは不動の地位を保つことになった。転機となったのは、1990~1991年と考えられる。日韓の半導体生産の前年比伸び率は、1990年まで同様のパターンを示していたが、日本が、1991年さらに伸び率が鈍化したのに対し、韓国の半導体生産は、1987年~1989年のシリコンサイクルのピークに近い伸ぴを示している。これは、もちろん、日本国内市場がAV不況で非メモリが厳しかったこと、外国製半導体輸入問題など政治的圧力が高まったことなどにより、生産量が落ち込んだことにあるが、日本のDRAMの国際競争力の低下の結果、日本の成長機会を韓国が奪ったとも見なせよう。韓国が日本に追いついたのは、4メガの立ち上がりの遅さと折りからの不況から、日本メーカーに戦略面で迷いが生じていた1992年の春先であろう。韓国の半導体成功の最大の要因は、財閥経営にあり、豊富な資金を積極果敢に投じることができる。特に、1991年度、1992年度とマイナスが続く日本の設備投資動向と対照的に、韓国は1990年をボトムに設備投資を増やし始めた。不況期こそ、設備投資の絶好の機会という半導体の鉄則を忘れたことが、機会損失に繋がったといえよう。さらに、かつての日本の超LSI研究組合のような優れた官民共同の技術開発・移転システムも築かれた。科学技術庁傘下のETRI(電子通信研究所)が基礎研究、実用化を各社で競争させ、トップの会社に資源を集中投入する。具体的には、商工部(日本の通産省に相当)が、通常より数%低い金利で融資できるようにする。結果的には、断然優位にあるサムスンに資源を傾注させることで、開発の効率化を図る。日本の多くの官民共同研究プロジェクトでは、資源は公平(均一)に分配されるが、参入の平等でなく結果の平等を重視するという構造が、開発を非効率にしており、この点で優れたシステムといえる。また、特にサムスンに当てはまることであるが、理工系の優秀な人材を大羅に確保でき、それを半導体分野に集中投入できた。この他、日米のよい点を積極的に素直に取り入れている点があげられる。これは、工場の装置管理から全体のシステム構成、事業マネジメントまで当てはまる。日米両国間では、技術覇権争いの中で、双方の技術が十分オープンではなかったが、韓国は双方の技術に客観的にアクセスできた。まさに、日米の技術覇権争いの中で「漁夫の利」を取ったともいえよう。そして、日本にくらべはるかに効率的な製造設備の購入と運用も重要であった。
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