半導体用語集
日米半導体摩擦
英語表記:Japan-U.S. semiconductors friction
1980年代は、果敢な設備投資をして生産技術の革新、品質向上に努め、DRAM市場で覇権を握った日本メーカーが急速に地位を上げていった。特に、1980年代半ばから1990年前半までは、日本の総合電機メーカーが DRAM市場でのシェアを独占、半導体全体でも、NECが1992年まで、世界でシェアトップとなった。国別のシェアでは、1980年には、日本は30%弱、米国は60%弱であったが、1986年に米国を抜いてからは、1988年、1989年は、日本のシェアが50%を超えた。こうした日本の躍進と米国の凋落の中で、1980年代半ばに日米半導体摩擦は起こった。すなわち、1985年に、マイクロンが、DRAMで、日本企業をダンピング提訴、次いでインテル、NS、AMDは、日本企業8社をEPROMのダンピングの疑いでITCに提訴、さらに、SIAは、日本メーカーは、半導体貿易で不公正取引を行っているとして米政府に通商法 301条に基づく制裁を求めた。米国国務省は、1986年3月に、日本製DRAM、EPROMにつき、約20~190%のダンピング課税を仮決定したが、その後、米商務省と日本メーカーは、サスペンションアグリーメントを締結、さらに、日本での米国メーカーのシェア拡大を図るべく、1986年9月に第二国間の政府協定として、第一次日米半導体協定が締結された。これは、第三国市場も含めたダンピングの禁止と日本市場のさらなる開放を進めるとする、二本柱の協定であった。1991年7月末の協定期限切れを控え、今度は、米国はマーケットアクセスの改善は不十分として5年間の協定の延期を要求、さらに、新たに、マーケットアクセスについては、米国系半導体の日本市場でのシェア20%を要求、それを日本側も事実上、目標とすることを認め、そのためのアクセス進展の評価条項、デザインインなどの協力関係の重要性を規定した。また、ダンピングについては、日本政府によるモニタリング、企業自身の努力による価格コストデータを収集、保管し、米政府がダンピング調査を開始した時に、このデータを2週間以内に提出する措置を規定したのである。これは、日本の半導体業界のみの履行義務が大きい片務的協定であり、多大な時間、労力、費用がかけられ、 日本企業の行動を縛り、その実態がガラス張りにされたといってもいい過ぎではないだろうとみられている。さらに、日米半導体協定とは関係ないが、TIを初めとする特許摩擦も頻発した。この時期、日本メーカーは技術力、製品力ではトップであったが、こうした協定や特許戦略に翻弄され、じわじわと、その果敢さを失っていったように思われる。まさに、日本がDRAM中心に、競争力で米国を追い抜いた1986年に締結され、また再び米国に競争力で抜き去られ、韓国や台湾にも追随されることが決定的となった1996年に終結したという意味では、歴史的にみれば、日本の半導体での国際競争力向上に歯止めをかける上で、直接間接の役割を果たしたといえよう。
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